最高裁判所第二小法廷 昭和31年(オ)410号 判決 1959年7月24日
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人松下宏の上告理由について。
所論は、原判決は民法一一〇条の解釈を誤り、これが適用を排除した違法があると主張する。
原審の確定した事実によると、訴外日新食品工業株式会社の資金、経理担当者たる訴外花房鵬三及びその部下である経理課長石橋建治は、従前から右訴外会社取締役たる被上告人が主張その他不在中その取締役として担当する職務処理の必要上被上告人名義のゴム印及び被上告人がもつぱら取締役として使用するため届出てあつた印章を預り会社のためその職務を行うことを認められていたけれども、被上告人個人に法律効果の及ぶような行為についてこれを代理する権限は未だ曽て被上告人から与えられたことはなかつた、というのである。
されば、前記訴外花房鵬三、石橋建治は未だ曽て被上告人の代理人であつたことはなく、従つて同訴外人らが被上告人から預つていた前記ゴム印及び印章を使用して被上告人名義で本件保証契約を締結しても、これにつきいわゆる民法一一〇条の表見代理の成立する余地は存しないのであつて、この点に関する原審の判断は正当である。論旨は理由がない。
よつて、民訴三九六条、三八四条、九五条、八九条に従い、主文のとおり判決する。
この判決は、藤田裁判官を除くその余の裁判官全員一致の意見である。
藤田裁判官の少数意見は次のとおりである。
本件被上告人名義の個人保証の契約は、訴外日新食品工業株式会社の資金経理担当者たる花房鵬三及びその部下である経理課長石橋建治が、被上告人個人を代理すべき何らの権限なくして、予て被上告人から預つていた被上告人の印(乙第一号証の印)を使用して、上告銀行との間に締結したものであることは原判決の確定するところである。
そして、原判決は、上告人の民法一一〇条に基く表見代理の主張に対しては、右花房らは同会社取締役たる被上告人を代理して会社の事務を処理したことはあるけれども、被上告人個人に法律効果の及ぶような行為についてこれを代理する権限は未だかつて被上告人より与えられたことはなかつたのであつて、即ち同人らは被上告人の法律行為についてこれを代理すべき権限を全く有しなかつたものであるとして、被上告人の右主張を排斥している。しかしながら一面において原判決は、上告銀行は昭和二三年一月一一日被上告人個人との間に当座勘定取引契約を締結し、右契約に基く金員の出し入れについては石橋がこれに当つていたことが認められるとしている。ただ原判決は、右当座勘定取引は被上告人個人名義となつているけれども、その実は右会社と上告銀行との取引であり、同会社の税金対策上被上告人個人名義を出したまでのことで、いわゆる裏勘定に過ぎず、従つて被上告人が個人として金員の出し入れをしたことはなく、石橋がその経理に当つていたのは、被上告人の代理人として行動していたわけでなく、同会社の経理課長として会社の経理に関する当然の職務を遂行していたに過ぎないものであることを認定して、右の石橋の被上告人に対する関係は民法一一〇条表見代理における代理関係とするに足りない旨判示しているのである。右原判決認定の事実関係において、該当座預金契約の一方の主体が法律上、会社であるか、被上告人であるか、被上告人個人は原判決のいうごとく右契約に法律上全然無関係であるかどうかはさらに検討を要するところであるけれども、(殊に契約の当初において、上告銀行が、それが、同会社の裏勘定であることを知つていたことは、原判決の認定しないところである。若し、当時上告銀行がそれを知らなかつたとするならば、法律的には右預金取引は、銀行と被上告人個人間のものと解するの外はないであろう。)かりに原判決のいうごとく、それが「その実は同会社と上告銀行との取引(裏勘定)」であつたとしても、「右花房、石橋が従前から被上告人が出張その他不在中、その取締役として担当する職務の処理上被上告人名義のゴム印及び前掲乙第一号証の印を預かり、被上告人に代つてその職務を代行することを認められていた」こと、「被上告人名義の当座勘定取引契約は昭和二三年一月一一日から翌二四年二月一〇日まで一年余に亘つてその取引が継続し、その間右契約に基く金員の出し入れは石橋が当つていたこと」は原判決の確定するところであり、この契約の締結自体も石橋が被上告人名義を用いてその衝に当つたものであること、石橋が右契約の締結および右預金の出し入れについては、かねて被上告人から預けられていた印章を用いていたこと、また、石橋は引き続きその印章を預けられていて、本件被上告人個人名義の保証契約を締結するにも、右同一印章を使用したものであることは原判決の明確には確定しないところであるけれども、その認定の全趣意から十分にうかがわれるところである。とすれば以上の事実関係の下において、本件保証契約の締結に民法一一〇条を適用するにあたつては、石橋は被上告人の「代理人」と目するに十分であると思料する。
けだし民法一一〇条は、取引の安全保護を主眼とする規定であつて、必ずしも、しかく厳格な意味において代理権を与えたものでなくても、石橋に自己の名において如上の代理行為をすることを許した被上告人は、石橋が更にその権限を踰越して代理行為をした場合においても、若し、その行為の相手方において、石橋の代理権を信じ、しかも客観的に代理権ありと信ずべき正当の事由が存する限りにおいては、本人としてその行為につき責を負うべきものと解することは、まさに取引の安全保護を主眼とする同条の趣意に沿うものであると信ずるからである。
であるから、原判決としては、この点に留意し、さらに本件個人保証の締結について、上告銀行側に石橋において被上告人個人を代理する権限ありと信じたについて正当の事由があつたかどうかを審理しなければたやすく上告銀行の表見代理の主張を排斥することはできなかつたのである。もつともこの点について、原判決は、前記いわゆる裏勘定が昭和二四年二月一六日解約せられたのであるが、遅くとも右解約当時上告銀行の係員は、右裏勘定の事情を十分了承していたものであることを認定し、本件において表見代理の法理を適用すべき余地はないものと判示しているけれども、それだけの事実をもつて、上告銀行が本件個人保証契約につき石橋の代理権を信ずべき正当の事由なしと即断することのできないことはいうまでもないところであつて、要するに原判決は民法一一〇条における代理人の意義の解釈をあやまり上告人の表見代理に関する主張について審理を尽さない違法あるものというの外はない。
(裁判長裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一)